〈イマ〉「此コ」の先へ


新芸術校第3期生グループAによる展覧会『其コは此コ』は、「なんで生まれてきたんですか?」を実装した展覧会である。

「なんで生まれてきたんですか?」は、参加作家である龍村景一が事前に提出したステートメント(https://www.shingeiga-socococo.com/)の一文である。龍村はこのステートメントの中で「なんで生まれてきたんですか?」の回答として「生まゴル」を提示しつつ「そんな言葉はなかったので私は生まれたのです」と締めくくっている。
龍村は「あれはエッセイです」と断言したが、龍村以外の3人のアーティストにも(いやむしろ龍村以外にこそ)通底する問題意識であるように思えた。

このテキストをお読みの方々にも心当たりがあるかと存じあげますが、この世で生きていると「なんで生まれてきたんですか?」という質問を定期的に受けます。(中略)それなら私は「生まれた」のではなく「生まゴル」であったりしてもよかったのですが、あいにくそんな言葉はなかったので私は生まれたのです。(ステートメント/龍村景一)

1.


『猫の向こう側へ』というタイトルで、キャンプ用の簡易テント、ドローイング、猫の鳴き声を使ってインスタレーションを展開した友杉宣大は、友杉自身と同一化した猫の表象を用いてこの世界に存在することの不思議さを表現している。

ガラスの眼をした猫は唄うよ お腹が空いてもりんりんと
ガラスの眼をした猫は唄うよ 生きてる証拠をりんりんと
ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 短かい命をりんりんと
ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 大切な今をりんりんと
あぁ 僕はいつか 空にきらめく星になる


これは、BUMP OF CHICKENの『ガラスのブルース』(http://www.kasi-time.com/item-21873.html より抜粋した歌詞なのだが、友杉の表現しようとする世界観とどこか似ていないだろうか?

つまり友杉は猫と星というモチーフを使って「生きてる証拠」をりんりんと探しているのだ。

2.


『怪獣と迷宮』でさまよう怪獣を描いた中村紗千は、「脱色された」怪獣と一緒に中村自身も迷宮をさまよっている。

墨や鉛筆で描かれた複雑な空間構造の「迷宮」に、これまた複雑な線で怪獣が描かれている。
面白いのは怪獣が、レイヤー構造を持つ空間に存在しているだけでなくそのレイヤーを自ら上書きするかのごとく、覆いかぶさっているところだ。

つまり中村の怪獣は、絵画の中に存在する絵画空間すらもさまよっているのだ。

ここで筆者はやはりこの「怪獣」をゴジラと連想してしまうのだが(中村は長崎生まれ/広島の大学に進学し美術を学んだ)、しかし今回画面に表現された怪獣はゴジラのように何かのメタファーを背負わされているわけでもなく、逆にそのことを皮肉にしているわけでもなく、ただただポップにゆるく、キャラクターとして、中村の代役として画面に存在している。中村の怪獣は「脱色された」怪獣なのである。

やはり中村も、友杉と同様、自己を怪獣に置き換えているだけなのだ。


(1972年9月リリースのアルバム『怪獣のバラード』/歌詞
http://j-lyric.net/artist/a00126c/l016f77.html

3.


では、よひえや龍村は一体何を表現しているのか?
よひえは友杉、中村と違い「形が無い」。形が無いということが彼女の場合重要なのだ。

よひえは2つの作品を展示している。『ほの明るく意識だけが行き交う』と『おわりのはじまりのおわりのはじまりの…』である。

『おわりのはじまりのおわりのはじまりの…』はよひえ自身が自宅の改装時に体験したことが着想となっている。真夏の暑さと喧しさの中で、密閉された胎内に包まれた胎児の気分を味わった彼女は、妊娠中の記憶を思い出した。

実際に出産を経験したよひえは、お腹の中の心臓の鼓動を奇妙に感じたと語っている。お腹の中の心臓は自分の身体の一部でありながら、自分とは違うリズムを刻んでいるのだ。

子であり母であり、中であり外でもある、その不明瞭な線引きできない境界をよひえはこの作品で描き出そうとしたのかもしれない。

胎内の子どもは常に環境音に晒される。そのことの暴力性についてもよひえは問うている。

「幼児期健忘」というものを知っているだろうか?「幼児期健忘」とは幼児期の記憶がなくなる症状のことである。 一般に3歳以前の記憶であれば、記憶として残りにくい。これは、海馬の発達が不十分なためであるという説がある。(幼児期健忘 – Wikipedia


まれにこの「幼児期健忘」が起こらない人がいるらしい。

筆者が最近熱烈に読み込んでいる漫画『約束のネバーランド』にもその記述がある。ネタバレになるので詳しい説明は控えるが、母親の胎内で聞いた音を覚えていることによって、物語の核心に迫る事実を知ることになり、そのことが世界の構造を暴き出す重要な鍵となる。それはまさに眼前に広がる「世界はこうだ」をひっくり返すショッキングなものだった。

これはフィクションの話なのだが、それほどまでに胎内で得られる「音」というものは胎児にとって衝撃的なものなのではないだろうか。人は幼少期の体験はさることながら、あらゆる物事を忘れるべくして忘れている。そうでないと全ての人間は「死ぬ」ということを忘れられずに発狂してしまう。

そうした幼少期に忘れてしまったことを、よひえは彼女自身が体験したことの中に閉じ込めることによって、それぞれにそれぞれが忘れてしまったものを思い出させようとしているのではないか。

よひえはステートメントにこう書いている。

思いどおりにいかないことが心の内に澱のように積もっていくと、その澱にムシが湧いて時々暴れる・・・。(中略)それなら究極、誰かが言っていたように、「形」なんてなくなればいいのかと思う。


よひえの「なんで生まれてきたんですか?」への回答は、形から解放され、明滅する光となることなのである。
「人」の「カタチ」のその先を、彼女は見せたいのではないのだろうか。


4.


龍村は冒頭に引用したステートメントを書いておきながら、他のメンバーとは違い一歩先を提示した。

龍村の作品はとてもシンプルだ。

『いつかこの世に生まれるであろう孤独なタイムトラベラーへ』というタイトルの映像作品は、右足の「タンッ」という力強い踏み込みから始まる。海へ入水する前の男(龍村自身)の裸体が一時停止し、ブブブッと残像を刻んだのちに、足の踏み込み音がリズムを刻みながら複雑な映像を展開し始める。
像がレイヤーとなりいく層にも折り重なった時、重ねられたイメージとそこに刻まれた時間が空間を形成し始め、まるでSF映画に出てくる、宇宙をワープする際に出現する亜空間(あるいは、macのTime Machineを起動した際に立ち上がる空間)を連想させる。


龍村は言う。「タイムトラベラー」はYouTubeに上がっている100年前の動画を見ている我々あるいは誰かのことである、と。
それは、インターネット以降、YouTube以降、「複製技術時代/アウラ」以降に生きる我々のことである。
つまりこの作品は、「なんで生まれてきたんですか?」に対する、「自分探し」でも「さまよい」でも「形の無いものになりたい」でもない、今ココを生きる我々に向けた、〈イマ〉「此コ」の先へ向かう「生まゴル」的なビデオレターなのである。

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