健康でもあり不健康でもあるは可能か

ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校
第三期生展覧会 グループB
『健康な街』レビュー

既に様々なレビューが出た中で、批評界最弱の私がわざわざ言葉にする必要もないように思われるが、私は批評家ではなくアーティストであるので(鴻さんの言葉が思い起こされる)あくまで私の問題意識と繋げて私のために言葉にしてみようと思う。
グループBは、先に同じ空間で展示をしたグループAに比べて過密で、情報が多い印象を受けた。そう思ったのは、単純に人数が増えたこと、大掛かりなインスタレーションが多いこと、空間を仕切っていないこと、が理由に挙げられるが、もう一つの理由としてテキストや音声による解説が多いことも関係している。
グループBのステートメントは共同キュレーターである小林真行、長谷川祐輔により提出され、6人のアーティストがそれぞれ自作について解説したステートメントも提示されている。(下山由貴はステートメントではなくインタビュー記事。)五十嵐五十音は最初に出したものと、変更したもので2パターンあり、さらにステートメントを読み上げる音声まで展示している。(恐らくこの音声はテキストであるステートメントと違って作品の一部と認識するのが良いだろう。)
筆者が鑑賞したのが土日だったこともあり、アーティストは全員在廊しており(これは大変嬉しいこと。)全体のステートメント、アーティストの作品に紐付くステートメント、音声、本人による解説、そして作品、と、とても情報量の多い状況が生み出されてしまっていた。
通常の展覧会であるならば、一つのステートメントと、それに沿った、あるいはその内容を体現するような作品が展示されるのが一般的であると思うのだが、グループBの展覧会のそのひしめき合った状況に、様々な思想や、様々な思いが渦巻いているように感じてしまったのだ。
観客もとにかく多く、筆者である私が話を聞けたのは、下山と、長谷川だけだった。
2人の話を聞いてわかったのは、過度に善か悪か、是か非かに二極化してしまう現代の在り方に警鐘を鳴らし、別の在り方を提示したいという強い思いをアーティストそれぞれが抱いているということだった。
つまり、「健康」とは本当に健康なのか?それは健康でもあるし健康でもないのではないか?
表現は暴力なのか?それは暴力と言ってもいいし、言わなくてもいいんじゃないか?
AかBか、どちらの立場を取るのかを、明確な態度で示すことを常に強く要求されてしまう現代では、芸術家もその対象となってしまう訳で、彼ら彼女らはその状況に対して「否」を打ち出しているように感じた。
つまりその在り方はAかBかの中で、Cを提示しているのだと言える。
それは批評再生塾における、太田充胤的な「踊って-みた」(http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2273/)であるし、渋皮まろん的な「泣いて-みた」(http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2499/)なのである。
このBグループの提示したいC的な在り方を理想的に体現しているのは、五十嵐だろう。
五十嵐の作品は「私は脱ぐ」でも「私は脱がない」でもない、「脱いで-みた」を提示した。健康診断があるから行って-みたら、脱げと言われたので、ちょっと脱いで-みた、そしたらどこまでが服なのか分からなくなって、身体まで脱げてしまった。(最後は結果なので、脱げて-みた、でない所が興味深い)
この二極化した現代において、AでもなくBでもない在り方を模索し提示することは芸術家の使命でもあるように感じる。
しかしそんな現代だからこそ、AでもありBでもあるというような包括的な在り方も見てみたい、そんな気がしている。

健康な街
ゲンロンカオス*ラウンジ新芸術校
第三期生展覧会 グループB
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)
※会期中無休

平日   15:00〜20:00
土日祝日 13:00〜20:00
※25日(土)は講評会の為 16:00〜20:00の開廊になります。
https://kenkonamachi.site/

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