選択的性愛 – Statement
Selective sex and love
ある日、私はQにモデルを依頼して、私はカメラをQは衣装を持って東京の街を散策した。その散歩は、新宿2丁目→渋谷→品川とお昼ご飯を挟みながら行われた。この作品は、その時の記録であり、私とQの関係を超えたその先にある私の願いに到達するための試みである。
聖夜に謳う新しくもないがしかしとても大切な愛のあり方について
横山奈穂子
2017.12.20
すべての人はひとしく平等で自由であるべきである。
それは憲法が認め芸術が担保するより以前から自明であることだ。
しかしそれがしばしば脅かされてしまうことがある。
日本国憲法14,24条にはこう書いてある。
第十四条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。[1]
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
両性については諸説あるが、ひとまず今の日本では同性婚は認められておらず、同性愛者たちは(厳密には同性愛者ではない場合もある (注1) のだが法的な意味ではこの用語を使うしかない)事実婚や養子関係を結んでいる。(注2)
注1:例えば体は男性だが心は女性で、女性として男性が好きな場合は本人の性愛の自認としては異性愛者(ヘテロセクシャル)となる。性同一性障害という言い方もあるがその考えはジェンダーを考える上では古い、と私は考える。なぜなら性自認や性愛の自認は流動的で変化するものだからである。
注2:区によっては結婚と同等のサービスを受けられる「パートナーシップ証明書」が発行されている。だが一般的な結婚関係で得られる権利が認められているわけではない。渋谷区区長が言うように「パートナーシップ証明書」だけではカバーしきれない部分がまだまだあるだろう。区によっては数万円の手数料がかかり普及は難しいようだ。
私は、どんな人でも、しかるべき権利を、自由を与えられるべきであると思う。
それは社会が今どうであるとか、常識がどうであるかとかとは全く関係なしに。
もちろん、マジョリティであるとかマイノリティーであるとか男性女性LGBTであるとか全く関係なしに、である。
今回の作品でモデルを依頼したQも権利を与えられるべき人物の一人である。Qは自分が何者であるかひとしきり葛藤したあと(それは思春期の全ての人が通る道であるだろう)、現在はどのように/どのような人生を送るかに関心が移行しているようだ。
Qは生まれてきた性と戸籍の性は女性であるが、性自認は中性(かあるいは男性)であり、パートナーは女性である。
本人は「セクマイ」(セクシャルマイノリティー)という言葉を使っているので、Qはセクシャルマイノリティーであると言っておくのが正しいだろう。(本人の自認がもっとも尊重されるべきである)
Qは私との撮影の合間、出生のこと、幼少期のこと、名前のこと、恋愛のこと、結婚のこと、など色々と話してくれた。
特にこの話が記憶に残っている。「ある時期結婚をすごくしたくなった。でもこれは、年齢的に正しいことだとわかって安心した。」と。しかし今の日本にはQが公的に結婚できる術はない。Qは将来誰かと養子関係をひとまず結ぶだろう。
私の知人で結婚に対して懐疑的な、というよりも、結婚という制度そのものの廃止という未来があっていいんじゃないか、と語る人がいて、確かにそれはそうだと思った。
結婚を望む同性愛者も、結婚を望まない異性愛者も、全てが等しく肯定された社会を、私は待ち望む。
これが私の、この聖夜に謳うたった一つの願いである。